聖武天皇に関するニュース


秋田魁新報

聖武天皇愛用の袈裟復元 みやびな姿新たに
47NEWS
正倉院(奈良市)の宝物で、聖武天皇が愛用したと伝わる「七条織成樹皮色袈裟」(奈良時代)の複製が3年がかりで完成し、22日、宮内庁正倉院事務所が報道陣に公開した。 七条織成樹皮色袈裟は、光明皇后が聖武天皇遺愛の品を東大寺大仏に献納した際の目録「国家珍宝 ...
正倉院宝物「七条織成樹皮色袈裟」レプリカ完成MSN産経ニュース
色彩そのまま職人技 - 七条織成樹皮色袈裟奈良新聞 (会員登録)

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紀州新聞

10月、道成寺で平城遷都 1300年記念日舞公演
紀州新聞
今回のテーマとなる宮子姫は、日高地方が生誕の地と伝えられ、道成寺を建立した文武天皇のきさきで、聖武天皇の母。チケットは8月2日から日高川町役場などで販売する。 平城遷都1300年にあたる今年、同委員会がテーマに取り上げたのは文武天皇のきさきで、当地方が ...


奈良・興福寺の正了知大将像、半世紀ぶりに東金堂へ
朝日新聞
正了知大将は仏法の守護神で、人々の苦しみを取り去り、願いをかなえる存在とされる。聖武天皇が伯母・元正(げんしょう)太上天皇の病気全快を祈って726年に東金堂を建てた際に造られ、本尊・薬師如来坐像(ざぞう)の背面に安置された。1356年の火災で焼失した ...

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幻の智識寺 模型で“再現” 大阪
MSN産経ニュース
柏原市高井田の市立歴史資料館で、同市太平寺付近にあったとされ、現在は礎石のみを残す聖武天皇ゆかりの「智識寺」の“再現”模型が展示され、来館者の注目を集めている。 製作したのは歴史愛好家サークル「市民歴史クラブ」。模型は50分の1サイズで、木材や割りばしを ...


会えてよかった:大和の仏像 盧舎那仏坐像(東大寺) /奈良
毎日新聞
【花澤茂人】 聖武天皇が奈良時代、すべての生き物が幸せになるようにとの願いを込めて造立。天平勝宝4(752)年4月9日に開眼供養会が営まれた。平安時代末期、平重衡の南都焼き討ちで大きく破損するなど、何度も大破と修理が繰り返され、現在の姿は江戸時代に公慶 ...

聖武天皇関連エントリー

聖武天皇<半生の夢>に<黄金の花>陸奥に開く(万葉の世界 ...

... 黄金が発見されたのを喜んだ聖武天皇は大伴氏に先祖代々の功績を称え、詔書を出した。そのことを喜び、天皇を讃美したのがこの歌。 当時、大伴氏は退勢にあり、聖武天皇が頼りに綱だったと中西進「万葉を旅する」(ウエッジ選書)。 ...

聖武天皇<半生の夢>に<黄金の花>陸奥に開く(万葉の世界 ...

聖武天皇 彷徨と夢の軌跡

... 聖武天皇の愛児 基王を失って後の有力な皇太子候補だったが 藤原氏外の後継者擁立を阻むために、謀反の罪を着せられ自宅でで妻子もろとも憤死(728年)。 この陰謀には、藤原系である、聖武天皇も光明皇后も関わったといわれている。 しかし彼を葬り去っ ...

聖武天皇 彷徨と夢の軌跡

聖武天皇が遺棄した紫香楽宮の排水溝から「万葉集」成立の謎 ...

... この時、再び気が変わった聖武天皇、今度は難波宮へ行くと言い出した。建設中の紫香楽宮も捨てられたのだ。 聖武天皇は藤原不比等(659~720)が夢見た藤原一族初めての男性天皇。皇后もまた不比等の孫・光明子。即位は724年(神亀1)。 ...

聖武天皇が遺棄した紫香楽宮の排水溝から「万葉集」成立の謎 ...

従来とは異なる聖武天皇像

どちらが本当の聖武天皇でしょう? 歴史は刻々と変化するものです。 かつて家来の反乱・天災などに嫌気がさして次々に 非公式に都を移転し、諸国を放浪した聖武天皇ですが、 最近その従来の定説にNO!!が唱えられているようです。 ...

従来とは異なる聖武天皇像

聖武天皇と斎宮

... また 藤原氏勢力により 聖武天皇の第一皇女 井上(いのえ)内親王が斎王として 都から遠く離れた 斎宮 へ追いやられたとも 言われているようです。 聖武天皇の後継者争いも 複雑な様相がみられます。 東大寺大仏縁起絵巻(副本) 大仏鋳造は 紫香楽宮 ...

聖武天皇と斎宮

聖武天皇旅行記

山城国分寺跡(恭仁宮跡)(by ドクターキムルさん)

聖武天皇
 海住山寺からJR加茂駅に向かう途中にタクシーの運転手が近くに山城国分寺跡(恭仁宮跡)があると言う。早速そちらへ向かってもらった。
 山城国分寺跡には花見のお客もいて、七重塔の礎石に5、6人のグループがいた。「中心の礎石の下には仏舎利が納められていたのですよ。」と言うとこのグループは別の場所に移った。悪いことを言ってしまったなと思った。
 この地に天平12年(740年)、聖武天皇が都を遷し、恭仁京となったが、わずか5年ほどでまた遷都し、短命な都となりました。その跡に山城国分寺が建てられたのです。塔跡に大きな礎石が残り、同じ七重塔跡といっても東大寺の七重塔跡には基壇跡しかなく、礎石は残っていなかった。平城京からほど近い加茂の地に山城国分寺が建てられたところを見ると、当時は山城国の中心的な場所だったのだろう。思いがけなく山城国分寺跡を見られて少し嬉しかった。
(表紙写真は山城国分寺七重塔跡)

【旅行時期】2008/04/~2008/04/
【エリア】木津・京田辺
【テーマ】寺社・札所めぐり
【投稿者】ドクターキムル

【世界遺産】 古都奈良の文化財 「東大寺」(by みにくまさん)

聖武天皇
小学校の修学旅行で来て以来、○十年ぶりに東大寺に来ました。

東大寺というと、奈良の大仏でおなじみの大仏殿と、正倉院が有名ですが、決してそれだけではないはず。
今回は修学旅行では行かなかったところにも行ってきました。


◎ 東大寺(とうだいじ)

東大寺は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の仏教寺院で、金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。
「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁僧正(ろうべんそうじょう)である。

【旅行時期】2009/10/24~2009/10/24
【エリア】奈良駅・奈良公園周辺
【テーマ】世界遺産・遺跡
【投稿者】みにくま

子安 阿弥陀寺 安産祈願のお寺(by きよさん)

聖武天皇
妻の実家へ年始の挨拶に行った帰り道で「子安阿弥陀寺」の看板が目にとまり、20数年ぶりに参拝してきました。

聖武天皇の妃である光明皇后の安産を願い、聖武天皇の命を受けた行基が安産の秘法を習得中に阿弥陀如来が現れ安産を告げられた。感激した行基が如来像を木彫りしこの寺に安置しました。
このことにより安産祈願のお寺として泉州地域では広く信仰されています。

妻の安産祈願と安産のお礼参りで数回訪れています。

場所 大阪府和泉市大野町

【旅行時期】2010/01/03~2010/01/03
【エリア】和泉・泉大津
【テーマ】寺社・札所めぐり
【投稿者】きよ

日本の旅 関西を歩く 京都、大山崎町の宝積寺(by さすらいおじさんさん)

聖武天皇
宝積寺(ほうしゃくじ)は大山崎町の天王山中腹にある真言宗智山派の仏教寺院で724年、聖武天皇(しょうむ てんのう701-756年)の勅命を受けた行基(ぎょうき668-749年)による開基と伝えられている。行基は奈良時代に架橋、灌漑などの社会事業を行い、多くの寺を建てたと伝えられるが725年、淀川に「山崎橋」(山崎-橋本間)を架け宝積寺と川向こうを結んだといわれる。
723年、聖武天皇が文武天皇(もんむてんのう683-707年)の皇太子の時、夢に龍神が現れ授けられたという「打出」と「小槌」を祀ることから「宝寺」(たからでら)の別名があり、大黒天宝寺ともいわれる。この寺で修行したと伝えられるのが室町時代から江戸時代にかけて成立した御伽草子(おとぎぞうし)に登場する鬼を退治し「打出」と「小槌」を振ってもらって立派な若者になった「一寸法師」だ。豊臣秀吉(とよとみ ひでよし1536-1598年)が座して天下統一を考えたという「出世石」も残されている。1582年、天王山が豊臣秀吉と明智光秀(あけち みつひで1528-1582年)が戦った山崎の合戦の舞台となった際、宝積寺には秀吉の本陣が置かれ秀吉が勝利しその後天下を取った。秀吉は戦勝の礼に一夜で「三重の塔」を建立したと伝えられるが宝積寺の「打出」と「小槌」は秀吉に「運」も授けたようだ。
縁起が良い寺として古くから知られていたからだろう、著名人も多く参拝している。藤原定家(ふじわら の さだいえ1162-1241年) は「明月記」に1202年に宝積寺を訪れたことを記し、1864年には禁門の変で尊皇攘夷派の真木 保臣(まき やすおみ1813-1864年:真木和泉・まき いずみ)ら十七烈士の陣地がおかれた。
明治時代には夏目漱石(なつめ そうせき1867-1916年) が宝積寺や隣の大山崎山荘を訪れ「宝寺の隣に住んで桜哉」の句を残している。漱石も何か願かけをしたのだろうか、宝積寺は願い事をする人には魅力ある寺で現在も多くの参拝者が訪れている。
(写真は宝積寺の秀吉の寄進とされる三重の塔)


【旅行時期】2009/11/26~2009/11/26
【エリア】京都府
【テーマ】歴史・文化・芸術
【投稿者】さすらいおじさん

日本の旅 関西を歩く 兵庫、尼崎の寺町(by さすらいおじさんさん)

聖武天皇
尼崎の寺町は京都を思わせるたくさんの寺が軒を連ねている。
尼信博物館から一番近い広徳寺(こうとくじ)は、臨済宗大徳寺派の寺院。1390年に京都から尼崎の大物(だいもつ)に移された。京都紫野大徳寺の第七世である言外宗忠和尚が開基で1531年には、大物崩れの戦いで敗れた細川高国(ほそかわ たかくに1484-1531年)が三好一秀(みよし かずひで 生年不明-1532年) に捕らえられ広徳寺で切腹させられている。
 甘露寺(かんろじ)は浄土宗の寺院で円誉一実源永(生年不明-1490年)が室町時代に開基したと伝えられている。本堂は1687年再建され、1991年に改築されている。元は大物町にあり、尼崎城築城にともない寺町へ移転している。
 法園寺(ほうおんじ)は浄土宗鎮西派の寺院で佐々成政(さっさ なりまさ1536-1588年)が肥後国人一揆の責任で豊臣秀吉(とよとみ の ひでよし1537-1598年)に幽閉され、1588年に切腹させられた寺。本堂内には墓石の五輪塔がある。
 大覚寺(だいかくじ)は、律宗の寺院。摂津国八十八箇所第65番札所で、現存する尼崎最古の古刹とのこと。
寺伝によると、百済の僧・日羅(にちら)が聖徳太子(しょうとくたいし574-622年)の命で剣尾山(大阪府豊能郡能勢町)に月峰寺を創建、605年に現尼崎市に剣尾山を遥拝(ようはい)する灯炉堂を建立したのが始まりと伝えられている。
 長遠寺(じょうおんじ)は日蓮宗の寺院。
『大堯山縁起(だいぎょうざんえんぎ)』によると1350年に創建され、最盛期には七堂伽藍と子坊16坊を誇り1617年、尼崎城築城にともなって寺町に移転したそうだ。
 如来院(にょらいいん)は、浄土宗の寺院で法然上人二十五霊跡。
天平年間、聖武天皇(しょうむ てんのう701-756年)の厄除けを祈願し、行基(ぎょうき668-749年)が神崎に釈迦の土像を祀り、徧照寺と号したのが起源と伝えられている。1207年、法然(ほうねん1133-1212年)が讃岐配流の際に神崎に立ち寄り、5人の遊女を帰依させたが遊女は罪を悔いて入水したと伝わっている。如来院には法然の遺物や神崎五人遊女の遺髪、塚が残されている。
尼崎の寺町には尼崎城築城の際、多くの宗派の寺が集まっている。それぞれの寺に様々な歴史があり、寺の歴史を追ってみるのも楽しい。
(写真は尼崎・寺町の長遠寺の光景)


【旅行時期】2009/11/20~2009/11/20
【エリア】尼崎
【テーマ】歴史・文化・芸術
【投稿者】さすらいおじさん

聖武天皇の画像